はじまりの物語Beginning story
これからも引き継がれていく心、杉野味噌醤油のはじまり
はじまりは明治時代に遡り、苦境や戦火を乗り越え、家庭の味を支えてきた杉野味噌醬油。初代からの想いを受け止め守り抜く。創成から「時代」を繋ぎこれからの未来へ。
創業前夜~醤油屋の開業
杉野家は江戸時代から代々続く商家。最盛期は北前船を3隻、蔵を7棟所有し、廻船問屋として物資売買のほか、製針業、繊維卸などを手広く営む豪商として知られた。明治期までは繁盛していたが、大正期になると経営難に陥り、家屋や蔵を処分することになり、本家の家族は金沢に転居していった。
杉野味噌醤油の初代・杉野正一(明治17年1月1日生)は、この杉野家の長女・ゆきの婿である。正一は石動の町に腰を据え、杉野家の再建に向けて懸命に働いた。そしてゆきは夫を全力で支えた。大正3年にマニラ麻の取次店を創業。大正6年には有価証券売買の権利を有する石動証券を興し、事業を拡大。そこで得た資金で当時、売りに出されていた杉野家の土地建物を買い戻した。こうして正一は杉野家をしっかりと立て直し、潤沢な資金を蓄えた上で、大正10年、醤油醸造業に乗り出した。1か年の醸造量は400石だった。
二代目「キッコースギ」の商標を確立
二代目・正恒は、正一とゆきの長男として明治38年に生まれた。現在の高岡商業高校を出て、石川県金沢市大野にある醤油店で厳しい修行を積んだ後、父の店を引き継いだ。
正恒は時代を読み解く先見性に優れ、独自ブランド「キッコースギ」を立ち上げるなど、その経営手腕を発揮していった。また、モダンで社交的な正恒は、地元住民からの人望も厚く、家業の傍ら、町議員や教育委員長、消防団長などの役職を兼務した。店には正恒を慕って多くの町民が訪れ、様々な相談や困りごとの解決に尽力していたという。
三代目 醤油は新式醸造を導入。味噌は県内初「越中みそ」を名乗る
三代目・正雄(昭和7年生まれ)は東京農大の短期大学醸造学科出身。同学科は昭和25年、全国各地の醸造業を再建し、醸造業の子息を育成するために新設された学科であり、正雄はこの2期生。醸造の基礎を学んだ後、昭和28年の春、帰郷し、家業の味噌醤油づくりに精を出した。
正雄は早速、農大で学んだ新しい醸造方式を家業の醤油づくりに取り入れた。それまでの醤油づくりは、大豆・麦、塩などを麹菌や酵母で発酵、熟成させた生揚げ醤油に甘酒などの甘味料を添加する方式が一般的だった。だが正雄は、生揚げ醤油に科学的に製造したアミノ酸液を添加して旨味を引き出すという「新式醸造」に切り替えた。工場には、第一回新式醸造を記した台帳が残っている。この醸造方式で製造した醤油は「カンロ醤油」と命名。のちの平成30年、日本醤油協会主催の全国醤油品評会で「農林水産省食料産業局長賞」を受賞した。全国で11社。北陸では初の受賞だった。
当社では創業以来、生揚げ醤油を自社工場で製造していたが、昭和40年代、高度経済成長に伴って公害問題が深刻化した。味噌醤油業界でも、生揚げ醤油を作る際、河川に廃棄される大豆屑やゆで汁などが公害原因になるとして、浄化設備の整備が求められた。この状況を受け、県内40社ほどあった味噌醤油メーカーは対策を協議し、昭和22年、協業組合を設立。昭和43年には予算のかかる浄化設備を各社で整備するのではなく、浄化設備の整った協業工場で生揚げ醤油を一斉製造し、各店が味付け・ブレンドして製品に仕上げるという方式に転換した。味噌も同様、昭和47年に協業工場が設立され、ベースとなる味噌数種類を作り、各店で必要量を買い取り、ブレンドし、自社商品として販売することにした。
昭和50年代半ば、当社は自社製品をスーパーチェーン(ケーマート、チューリップ、トーカマートなど)で販売するという新たな販路を獲得した。正雄は商品を卸す際、他社商品との差別化を図るため、自社の味噌を「越中みそ」と名乗り、ブランド化を推し進めた。こうした積極的な営業展開で県内だけでなく、北陸3県にシェアを拡大。売り上げも上昇し、平成7年には1億5000万円に達した。
四代目 時代ニーズに合った経営戦略
杉野家の四代目となる正雄の娘・朋子(昭和35年生まれ)は三人姉妹の長女。東京農大醸造科を卒業し、昭和58年から家業を手伝い始めた。その年、当時サラリーマンだった中村克司(高岡市中田出身)と結婚。杉野家の婿養子として迎えた。杉野味噌醤油は、翌59年12月、当社は個人商店から株式会社になった。
克司は昭和63年、それまで勤務していた会社を退職し、当社に入社。まもなく代表取締役社長に就任した。平成20年には朋子も代表取締役となり、現在は夫婦で代表権を務めている。
バブルが崩壊し、平成10年頃から味噌醤油は価格競争が激しくなっていき、売っても利益が出ないという状況が慢性化していった。さらにライフスタイルの多様化・和食離れなどの影響で、需要の落ち込みが顕著になった。
こうした社会状況の変化を受け、当社ではフリーズドライの味噌汁を開発し、個食・孤食ニーズに対応していった。(こちらも価格競争の激化で、7年ほどで販売終了)。また、インターネットの普及に伴い、ネット販売もスタートさせた。売り方やPRに工夫を凝らすなど、新しい挑戦をしているが、「よいものを使って丁寧に作る。どんなに厳しい状況でも、商品の質は落とさない」という杉野家創業時からの理念は決して変えず、その作り方は代々「一子相伝」で頑なに守り続けている。
五代目
克司と朋子の長男・雄一は昭和59年生まれ。平成15年に東京農大醸造科を卒業し、「茅の舎だし」のブランドで有名な㈱久原本家(本社・福岡県)に就職。だしの製造と営業の経験を積み、平成19年に帰郷。当社に入社し、専務に就任。現在は製造責任者として働いている。
平成27年には竹田智美(高岡市出身)と結婚。智美は家事や子育てをしながら、店頭販売や事務職を手伝っている。